「キリストに仕え成長する」 06.04.30
エフェソ4:7〜16
<わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ共に。
あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。
同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、
背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、
救い出す。>(イザヤ46:3〜4) 私たちは、こうおっしゃる神さまを
信じています。
今年度の枚岡教会は、「キリストに仕え、成長する」との標語を掲げて
います。
一人ひとりがキリストに仕えることを心にとめ、また、奉仕しておられる
方々を祈って支えながら、歩んでいきたいのです。
教会には、神さまから様々な賜物を与えられている人が、集められて
います。
教会は、イエスさまを頭とする体であるといわれます。そこに連なる
私たち一人ひとりは、神さまから与えられている賜物を用い、互いに
補い合って、教会の働きを担っていきます。
教会を体にたとえ、私たちを体の部分にたとえることは、Tコリント
12章にも記されています。
教会総会資料を作成しながら1年を振り返るときに、実にたくさんの
方々のご奉仕があって、教会の歩みが進められていることに気付かされ
ます。教会でなされている奉仕の種類は百種類ではおさまりません。
奉仕し、キリストに仕え、教会の働きを担うことが求められているのは、
私たち自身の信仰の成長のためです。未熟な者でなくなり、この世の
事柄に振り回されることなく、イエスさまに向かって成長して行く
ためにです。
信仰の成長は、救いの条件ではありませんから、信仰が未熟だから
救われないということはありません。それでも信仰の成長が求められる
のは、私たちがいっそう救いの確かさ、恵みの大きさ、神の御手の
導きの美しさに気付けるためです。そうやって、いよいよ感謝と喜びが増し、
信頼が深まるためです。
キリストに仕え、教会に仕え、神さまと一緒に過ごそうと
している時にこそ、自分を担い、背負い、救い出してくださった
神さまのご愛を味わうでありましょう。